バンブルビー

2019年、米国、トラヴィス・ナイト監督作

18歳になったばかりの少女は、スクラップヤードで黄色いVWビートルを見つけ修理して自分の物にすることができた。愛車を手に入れて喜んだのもつかの間、黄色いビートルは異星から来た機械生命体だったこと、そして敵に追われていることを知る。

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トランスフォーマー・シリーズの前日譚ということのようですが、シリーズを通して見ていないので、あれがこうなってるからそうだったのか的な見所は理解できていないのです。物語としては粗いところがあって、軍隊というものはもう少し賢い人達によって運営されているのでは?みたいな緩さは多々あるのですが、大人が観る映画というよりは若年層向けと思って気楽に観賞すればよいのではないでしょうか。
とか言ってますがホロホロと泣いてしまって。なんでかと言うとですね、この映画は愛車の話なんですよ。

主人公の少女はモペットを持っているものの車が欲しくて親にねだる。けれどモペットに乗る時のヘルメットくらいしか買って貰えない。亡き父親が残したオープンカーを自力で整備して乗れるようにしようとするけれど、これも一人では手に負えない。そんな時にボロボロのVWビートルと出会う。
誰でも最初のバイク、車って憶えてるのではないでしょうか。愛車を手に入れた時のワクワク感と高揚感、そんな感情が本作でも表現されてる。
その車は異星から来たロボットだと知るけれど、バンブルビーという名前を授ける。そして彼を追いかけてきた敵と対峙して共に戦い、ある時は助けられ、逆にある時は彼を助ける。そうやってお互いの信頼関係を築き上げていく。
この辺りも愛車との関係そのもので、車に名前をつけて可愛がる人は沢山いるし、車というのはあちこちに一緒に出かけて行って自分を遠くまで連れて行ってくれる存在になると信頼関係が生まれて洗車したりメンテナンスしたりしてやることで双方向に支え合う関係になることと似通ってる。
で、戦いが終わると彼は仲間と合流しなければならないので少女の元を去って行く。
これも愛車との別れを経験した人には身に染みて分かる淋しさだと思います。

愛車と呼べる車を持っている人には、本作で描かれる、初めてその車と出会った時の喜びや、相棒としてお互いに築きあう信頼感、そしてそんな相棒とも別れがあるというせつなさが分かるのではないでしょうか。
映画の中の愛車はロボットに変形して人格があるけれど、現実の車もロボットに変形こそしないし、たかが機械だと分かっているけれどなんだか人格があるようにさえ思えてくるもので、本作ではそんな愛車と付き合っていく過程がロボットSFの形を借りて描かれてる。

なんでこんなことを長々と書いているかというと最近車を売却したのです。乗り換えではなく、維持費を捻出するのが負担になってしまって。

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もう20年以上前の車で自分が乗ってからも十年と少し。エンジン、足回りは何も問題ないものの車体はあちこちぶつけてへこんでいたし塗装も剥げかけてた。
阪神高速名神中国道山陽道九州道、四国にも行ったし北陸にも和歌山にも行った。東名、中央道、首都高速も走った。車中泊しながら色んなところに行って、どれもこれも一人旅の道のりを共有しているのは愛車だけで、ぎゅうぎゅうに想い出の詰まった車だった。十万キロを超えていたけれど一回も故障したことのない頼りになる相棒でもあった。でも経済的に支えきれなくなった。

近藤麻理恵の『人生がときめく片付けの魔法』によると片付けで物を処分しようかどうしようかと迷うなら

モノを残すか捨てるか見極めるときも、「持っていて幸せかどうか」、つまり、「持っていて心がときめくかどうか」を基準にするべきなのです

ということですが、俺の車はときめいたよ。ハンドルを握ればどこにでも行けると思えたから。どこにでも行く自由はないけれど、この車さえあれば、いざとなれば、どこにでも行けると思えた。自由を手に入れる道具を持っていることは心の支えでもあった。
ときめいたって手放さないといけないことだってある。ときめきなんて言ってられのは所詮金持ちの遊びです。

車を売ってから数日は悲しくて。もう俺は自力でどこにも行けないのだと思うと無力で。大事な相棒を失ったことはとても大きかった。そんな時にこんな映画観たら泣いてまうやろの世界。

愛車との出会いと信頼関係、そして別れをSFロボット映画の中に託して描いたこの作品、その最後に流れるエンディング曲は、主役の少女を演じたヘイリー・スタインフェルドが歌うこの曲。泣けた。いい車だったんです。

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