ブレードランナー

1982年、米国、リドリー・スコット監督作

植民星を脱走して地球へ潜り込んだレプリカント(人造人間)を捜査官ブレードランナーが雨のロスアンジェルスで追う物語。

www.youtube.comもうすぐ公開される『ブレードランナー2049』のための予習として再観賞。

過去の革新的な作品を若い人が見て「どこかで見たことのあるイメージばかりでどこが斬新なのか分からない」と言ったりすることがあるようで、それに対する言葉としては「そのありふれたイメージは全てこの作品から始まったのですよ」という物言いがある。
ブレードランナー』もそう言われる作品のひとつで、退廃的で暗く希望の無い未来を描いたイメージは今ではもう色んな映画で描かれてはいるが、全てはこの作品から始まっている。

しかしそうだろうかと思う。この映画を見てありふれた映画だと思うのだろうか。この映画が大好きだという贔屓目は多分にあるとは思うのだけれど『ブレードランナー』以後にこの作品を超える味わいを創り出した映画はあっただろうかと思う。

雨の未来都市、浮遊する乗用車、多様な都市住民、西洋(米国)を侵食する東洋文化、警察、探偵、猥雑な町、都市生活者の孤独、廃墟、巨大な建築物、レトロスペクティブ、高度な科学技術、原本と複製、悪夢、記憶、暴力、凄惨な個人的体験、男女の愛情、権力、逃走、奇形、機械、人間、飛散するゴミ、肉体と精神、銃、肉弾戦、高所の恐怖、不安、恐れ、焦燥感、生と死、等々、情報量の多い映画として語られるが、これほどまでに色んな要素を盛り込んで直線的にならずに非常に隠喩に富んだ表現で現した映画は『ブレードランナー』以後に知らない。どの場面も暗く陰鬱で美しい光景や清潔な場所は一度として画面に登場しないが、それでいてどの場面も美しい。徹底的に汚く淀んでいて不潔な様を描ききって美しさを滲みだしている。未来のデストピアを描いた映画は数多くあれど、これほど意味深で暗く淡い情感を醸し出す映画は21世紀になっても作られていないと思う。それほどオリジナリティーがあると思うのだけど。

改めてこの映画を見ているとリドリー・スコットは完成形を本当に思い描いていたのだろうかと思う。様々な要素をぶち込んでその結果出来あがってしまった世界がこの映画のような気がする。監督でさえも予測できなかったプラスアルファのものが充満していると思える。作ったのではなく出来てしまった作品のように見える。これほどのものを設計して作りあげることができるのだろうかという畏怖の念がそう思わせる。

あまりにも色んな要素が詰め込まれていてどのようにでも解釈できる映画で、何度でも
観られる作品だが、自分としては本作の中でレプリカントであるルトガー・ハウアーが吐く「俺が見たものをお前たちにも見せてやりたい」という台詞にいつも泣いてしまう。彼は戦闘用のレプリカントとして宇宙を転戦し凄惨な光景を見て来たという設定になっていて、地球でぬくぬくと暮らしている人間にこの台詞を吐く。
鬱病の症状なんて誰にでもあること」みたいな言葉を投げつけられた時にいつもルトガー・ハウアーのこの台詞が心の中に浮かぶ