アクト・オブ・キリング

2012年、イギリス・デンマークノルウェー
ジョシュア・オッペンハイマー/クリスティーヌ・シン監督作

1965年、インドネシアでは軍が政治の実権を奪取し、それと同時にプレマンと呼ばれるヤクザ、民兵による共産主義者及び共産主義者と疑われる者に対する私刑、虐殺が横行し、その犠牲者は100万人とも言われている。その虐殺を実行した加害者たちは今も平然と暮らしているばかりか政治の表舞台にも立っている。
彼等加害者に当時の状況を実演することを依頼すると彼等は悪びれる風も無くカメラの前で実演しその映画を作り始めた。
9月30日事件と言われるインドネシアで起こった虐殺を加害者の実演を通して伝えるドキュメンタリー。

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衝撃作でした。
映画は二人のやくざ者が映画を製作する過程を追い撮り続ける。その映画は彼らが犯したことを彼ら自身が実演するもので、それは殺人と虐殺。それを何の罪の意識もなく嬉々として実演する空虚さ。そしてその演技が滑稽であればあるほど恐ろしい。
彼等はパンチャシラというインドネシア国内で300万人もの組織員を誇る民兵組織にも所属している。そこには現役の大臣や知事たちも加入している。殺人集団が今も公然と活動していて、政治の舞台にさえ立っているということが恐ろしい。

彼等は共産主義者を殺すだけでなく、華僑も殺した。中国という共産主義の国を母国とする彼等に対する偏見があるのか、移民である華僑に対する偏見が元々あるのかは分からない。映画の中では華僑の商店に出向いて公然とショバ代を強請りとる場面さえある。まさにヤクザ。

ラストで、幻想的な光景の中、恐らくは夢の中のような設定なのだろう、殺された被害者が殺人者であるプレマンに「私を天国に送ってくれたことに感謝する」という台詞を吐く場面の撮影がある。
これは殺人者がそう言わせている。その無慈悲さ。その都合の良さ。吐き気がするような身勝手な主張。

終盤、映画制作を主導した中心人物のプレマンは、映画作りを通して被害者の気持ちが分かったといって涙を流す。それまでにも被害者のことを考え、思い出して憂鬱になる場面も描かれていた。
彼の涙は本当だろうし悔恨と懺悔の気持ちも心からのものだろう。しかし数百人を無残に無法に殺した罪は消えない。罪人は罰せられることで罪を代替的に購うけれど、基本的には罪は消えないと思う。

この事件をインドネシアの国内問題や国民性と捉えることもできるだろうが、今の日本に当てはめることも出来るのではないでしょうか。日本会議のような極右団体の議員団を名乗る国会議員は沢山いるし、政権中枢にもいる。インドネシア民兵組織幹部が政治家であることと大して変わらない。
民兵組織は日本の右翼団体そのものだろう。実際、右翼団体には日本の民兵組織だと名乗っている団体もある。そしてアウトローがそこに蠢いているのもインドネシアと変わらない。
もし日本でこのようなことが起これば右翼団体民兵組織として機能するだろうし、町のちんぴらやヤンキーがそこに加わって普段抑えていた暴力衝動を発露するだろう。いじめのことを笑い話や手柄話のように語る加害者たちのような人間がそこで活躍するのだろうと思う。

表層的にはインドネシアの国内事情の話ではあるが、どの国の誰にでも置き換えられることだと思う。表層を見るか、その構造を捉えるかで映画の見方は変わる。

この映画はこちらで知りました。謝意。

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