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FAKE

2016年、森達也監督作
ゴーストライター騒動で一躍時の人となった佐村河内守氏と新垣隆氏、その二人の内の殆どメディアに出ることのなかった佐村河内氏に密着するドキュメンタリー。

www.youtube.com本作に関するインタビューで森達也監督は何度も、ある一つの視点だけを信じるのではなく多角的な視点をもつことの重要性を説いています。それはマスコミが一方的に描く視点だけでなく他の視点も存在し、違った視点から物事を見ると違う真実が見えてくる可能性があるということを指し示しています。その実践が本作であって、マスコミが描いた佐村河内ではなく佐村河内氏に密着して氏の視点から物事がどう見えるかを提示しています。
同監督の映画デビュー作『A』はオウム真理教に密着することで、マスコミが描いてきたオウムの姿と違い、オウム側からの視点を提供していて、森監督の方法論が変わっていないことが分かります。

この多角的な視点ということは常々思ってることなんですよね。テレビや雑誌の視点だけが本当に正しいのかということはいつも感じています。その報道がどのメディアでも画一的になればなるほどそう思います。そしてネットを見ても同じような視点の人が多いのを見て何かうすら寒いものを覚えます。
珠に違う視点を提示する人がいますが、叩かれているのも見掛けます。逆張りとレッテルが張られ、仲間じゃないという排他的な攻撃性を感じます。
森達也監督が『A』を発表した時も随分批判がありました。オウム側に立ってみる必要はない、奴らは加害者だ、加害者の言い分を聞く必要は無いというものでした。

確かに逆張りで耳目を集めようとする人はいると思います。でも違う視点を持つというのはとても大事なことです。それはマジョリティ側からの視点と違ってマイノリティ側の視点に立って物事を見つめてみるということにも繋がります

例えば事件なら、加害者と被害者と傍観者がいるわけで、多くの報道は被害者に寄り添ったものになる。それは当然だとは思う。被害者こそ支援されるべきだから。でも加害者の視点もある。そんな加害者の側に立つ必要はないという意見が大勢だろうけど、視点が存在することは確か。そちら側から見れば別の景色が見えるかも知れない。こういうことを言うと、被害者にも何らかの非があったんじゃないか、というような下衆の勘繰りだと思う人もいるけれど、そうじゃない。下衆になる必要はない。

事件でなくとも、欧米とイスラムの問題ならイスラムの側の視点も存在するし、不倫の話題でも不倫した側と同時に不倫された人間の視点も存在する。そしてどの場合でも傍観者の視点はある。

世の中の視点が固定されてしまうことに対する警笛と、物事を様々な視点から見る、若しくは違う視点を想像する。そういう大事なことを芸能の話題を題材に提示しています。

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以下は観られてない方には駄文です。


■虚実
何が真実で何が嘘なのか。あの騒動では佐村河内氏は作曲が出来るのか、本当に耳は聞こえないのか、という論点がありました。
前者については外国人記者から厳しく詰め寄られる部分があります。
後者については、医師の診断により聴覚障害者には該当しないけれど、会話が聴き取れるほどには聞こえない、でも話者の口の形を見て言葉を理解できたり声を発していることは分かったりする。そして聴覚障害者でも音楽を楽しめる人がいることが紹介されます。
聞こえないのか聞こえるのかという0か100かという話ではなく、その間の複雑な場所にいるということが明示される。それは0か100かというメディア報道を批判していることでもある。嘘か真かではなく色々な事情がある、世の中はそんな善悪論で語られるものではないということを暗示していると思います。
難しい話を簡略化して説明する人が重宝される時代ですが、難しい話は難しいのであってそれを確実に伝えるには時間が必要です。要は情報を摂取するのにそれにかかる時間短縮が求められて、それに応えている内にそうなってしまったという現象だと思うのだけど、その弊害を暗示しているというのは誤読でしょうか。

■映像
メディアによって一方的にその姿を描かれた佐村河内氏ですが、この映画の根本は逆の視点、佐村河内氏の視点に立つとどう見えるのかを提示するものです。
映像は、ほぼ佐村河内氏の自宅のシーンで構成されています。カーテンが閉ざされて薄暗い部屋。それは明るい場所ではサングラスをしていないといられないという佐村河内氏の事情によるものですが、この映像がとても圧迫感、閉塞感があって佐村河内氏の内面を具体化したような印象を与えます。一方的なバッシングで精神にダメージを受けた氏の心象風景がこれだという感じを与えます。
そして時折写る夫妻が飼っている猫。嘘をつかない猫、邪心のない猫は何かの暗喩でしょうか。そのどれもがこの映画にイメージとしてとても合致したものであるように見えます。

■作曲
例えば土地があったとして、そこに建てる建築物を設計するのに、2階建てにしよう、間取りはこんな感じ、構造はこんな感じ、外観はこんな感じ、と「基本設計」をするわけです。その人が図面が描けないなら略図と文章で表現したとします。
で、次の段階として構造を具体的に詰めていったり、水道、ガス、電気などのユーティリティをどういう経路で引き込むのかなど、勿論間取りなんかも図面を描いて具体的に計画していきます。「詳細設計」とします。
上記は簡略化して書いてるということは理解して下さい。

佐村河内さんと新垣さんの作曲の方法はこの基本設計と詳細設計の役割分担であったようです。佐村河内氏は文章と図といった文書と主要な旋律をテープに録音して、それらを指示書として新垣氏に渡して仕上げて貰う。佐村河内氏は譜面は書けない。でも新垣氏は譜面が書ける。
作曲というと一人の人間が構想から基本の枠組みを決定して細部の旋律まで設計して譜面に起こすという一人の作業だと思うのですが、それを分業している感じがします。それをもって通常一人でやるべきことを分業しているのだから佐村河内さんの仕事を作曲家の仕事として不十分と言うのかも知れません。そして新垣さんの言い分は、形の曖昧なものを最終的な形にしたのは自分なのだから「佐村河内は作曲をしていない、自分が全部やったのだ」という言い方なのかも知れません。
でも今までの「作曲」が一人でやるものであったとして、分業という新しいやり方で何が問題があるでしょうか。問題は分業の後半の仕事をした人間の名前がクレジットされていなかったということだとは思います。でもクラシックの世界では最終的な総譜はお弟子さんが仕上げるということがあるそうです。

共作を代表者の作とすることに問題があるのなら、下請けの成果をごっそり持って行って自社の名前だけ書き換えて成果とする経済活動はどうなの?OEMやODMというものは設計、製造を他者に委託して、製品に自社のロゴを冠して売るなんて当たり前にあるんじゃないの?丸投げなんて全部それでしょう?下請けは元請けのゴーストライターをやらされてるようなもんじゃないの?それが悪ならメディアは糾弾しないの?
一般の仕事の現場で起きていることも本質的には剽窃ではないですかね。

■信じる
佐村河内さんは監督に「私を信じてくれますか?」と問い、監督は「信じてなければ撮れない」と言います。その答えを聞いて佐村河内さんは大きく安堵します。でも監督は最後まで彼を信じていないような気がします。それは最後の最後まで。そこには監督がついたある一面での嘘がある気がします。
奥様が佐村河内氏を信じているということもこのテーマに深く関係があります。とても献身的に尽くされている。そこには愛してしまった人を信じ抜くという信念の尊さが描かれています。この辺りの信頼関係が描かれたことをもって森監督は本作を夫婦愛の映画でもあると仰っていると思います。
観客は誰の言葉を信じるべきか、そして監督さえも信じていいのかという疑心暗鬼を持ち続けながら映画を見るという体験をします。信じるということを観客に対しても揺さぶりをかけています。

■ドキュメンタリーの嘘
森達也監督には『ドキュメンタリーは嘘をつく』という著作があるらしいのですが、例えばこの映画の中で手話通訳の奥様のいない場所で監督が佐村河内氏に話しかけて彼がそれを理解するという場面があります。この時彼は口の動きを見てこう言ってるのだろうと理解してるわけですが、編集次第では「聴こえている」という風に描くことも可能なわけです。そういう風にも作れる、というのが「ドキュメンタリーの嘘」の一つと言える現象かもしれないなとか、そんなことも考えます。

■残酷
新垣氏がテレビの中で芸人に、これ以上ないくらいいじられている番組を夫妻が見ている場面。外国人記者の容赦ない質問。それらの残酷さとその場面を撮ることの残酷さがあります。ドキュメンタリー監督が冷徹でいる為には残酷さを併せ持っていないと任務を遂行できないという過酷さを感じます。
テレビ局が佐村河内氏にバラエティ番組への出演を依頼する場面では、人を消費しようとするテレビの残酷さを感じました。

■人物
佐村河内さんと新垣さんについて、映画を見た限りでの人物評としては、どちらも人の期待に応えてしまう人なんじゃないかという気がしました。
新垣さんはテレビ雑誌で道化の役を演じているのもそれを期待されたからそれに応えてる。佐村河内さんについて語った「彼は作曲ができない」「彼は本当は耳が聴こえる」「彼は楽器が弾けない」などの発言も誰かからそう期待されたから言ったような気もします。
佐村河内さんも「全聾の作曲家」という役割を期待されてそれに応えてしまったんじゃないでしょうか。非常にサービス精神がある人のような気がするんです。

とても良くない例えなのですが、詐欺師が詐欺を働くのに被害者が望むように騙すということがあります。被害者は騙されているかもと思いつつも詐欺師といることの心地良さをとってしまうような状態。そして詐欺師というのはそう思わせてしまうような人としての魅力を不思議に持っている。それはちょっと俳優の魅力にも通じるところがあると思うんです。

この2人は周囲の期待に応えている内に「ちょっと真実とは違うけどまあいいか」の程度から引き返せない嘘の領域にまで押しやられた弱さを持つ人たちであるような気がしました。そして俳優のもつ「人」としての魅力に近いものをこの二人は持っている気がするんです。特に映画の中で見られる佐村河内氏の姿を見ていると、そういう人を連想してしまいます。その魅力が、監督が「この人はフォトジェニックで映像に向いている」と感じた部分ではないでしょうか。

■普遍性
本作は何年も後になっても見られる映画かと考えると、どうなんだろうという気がします。ゴーストライター騒動の狂騒が観客に了解されている上で映画は始まります。この騒動が風化した時にはその重みは随分軽くなっているのではないでしょうか。メディアの罪悪や嘘と真実とは何なのかという普遍的テーマではあるのですが、所詮、芸能ゴシップ的話題が発端です。森達也監督の優れた仕事の一つとしては残るでしょうが、騒動の狂騒という前提が忘れられた時にどういう観方をされるのか、と思いました。

■ラストシーン
この映画、「衝撃のラスト12分間」という宣伝コピーがあって、その部分について映画評論家の町山智浩さんが「やらせ」と言ったらしいのですが、どういう意味でしょうか。作劇ということでしょうか。
確かにその前の外国人記者のインタビューと森監督のある提案があって、あのシーンに至るわけですが、それを持って作劇、やらせと捉えているのでしょうか。自分にはあの提案の流れがあって佐村河内氏が自発的に動いたように見えます。それはやらせではないと思えます。誘いはあったかも知れないけれど、決定権は彼にあったのだから。
もし監督が「こういうシーンを撮りたいので演技して下さい」と言ったなら、それはやらせなのでしょうが、それはもうドキュメンタリーではないですよね。フィクションだから。

自分はラスト12分の中で、最後の最後のカットが心に残りました。あの問いかけの言葉の意味するところ、そしてあの反応、そしてあそこで終わってしまうという編集によって複数の意味を持たせてしまう効果。あのシーンこそがこの映画の内容をある面で凝縮しているように思えました。

騒動の余韻が残る今と言う時代に観ておくべき作品だと思います。