アトミック・ブロンド

2017年、米国、デヴィッド・リーチ監督作

東西の壁が崩壊しようとする寸前のベルリン、英国の諜報機関MI6の女スパイは重要な機密文書を敵国のスパイから奪還する使命を帯びて彼の地へ潜入する。シャーリーズ・セロン主演のアクション映画。

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格好良い。凄く格好良い。
シャーリーズ・セロンが格好良いのは言うまでもない。激しいアクションも決まってるし、様々な衣装で見せるその立ち振る舞いがどれもこれも男前。「ベルリンでは誰も信用するな」と指示されて単身で乗り込んでいって、2重スパイが誰なのかという疑心暗鬼の中で活動するのだけれど、孤独を恐れない自立した人間というのは男でも女でも格好良いものです。
映像も洒落ていてテンポも小気味よい。オープニングのロゴからしてワクワクさせられる作りでした。当時のポップソングを挿入しているのも良い。それとベルリンの街並みが良いんですよね。なんとも言えない雰囲気を醸し出してる。こういうのを見るとヨーロッパの映画が観たくなる。


深いテーマなんて要らない、頭空っぽにしてその格好良さに酔えばいい映画だと思うのですが、主人公が東ベルリンに潜入してKGBの一味を避けて逃げ込んだ先の映画館ではタルコフスキーの『ストーカー』が上演されていて、実際スクリーンに映画の一部が映る場面もあった。『ストーカー』は大好きな映画のひとつなのだけれど、なんでこんな娯楽作のお手本のような映画に小難しい映画の代表のようなタルコフスキー映画だったのだろう。調べると『ストーカー』は1979年の映画で、本作は1989年が舞台だからちょっと時代が食い違う。この時期に東ベルリンではタルコフスキーが流行ってたんかな。唯一謎です。

ブレードランナー2049

2017年、米国、ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督作

2049年、市民に紛れて暮らす旧型レプリカントを処分する任務についていたブレードランナーのKは任務に従い農場にいたレプリカントを処刑する。しかし彼の周囲から30年前に失踪した女性レプリカントの痕跡を見つけ、彼女の謎を捜索することになる。
1982年に公開された偉大なSF映画ブレードランナー』の正統なる続編。

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賛否両論の本作ですが、俺にはとても良かった。静寂に包まれた孤独な被差別者の話だった。

前作『ブレードランナー』には3人の登場人物、リック・デッカードとロイ・バッティ、そしてセバスチャンがいる。
デッカードレプリカントを狩るブレードランナーとしての孤独な男であり、ロイ・バッティはレプリカントで少ない仲間はいるが彼等と逃亡した被差別者、マイノリティとして描かれる。そしてタイレル社の科学者であるセバスチャンは人間であり真っ当な職業を得ているが老化する病気を持ったマイノリティであり部屋に機械仕掛けの人形を置いて自己を慰めているようなこれも孤独な男である。

ブレードランナー2049』でライアン・ゴズリングが演じる主人公Kは、その3人の個性を併せ持った人格として描かれる。
Kはブレードランナーという汚れ仕事を請け負う仕事であり、冒頭の旧型レプリカントとの会話でKもレプリカントであることが明かされる。そして警察署内でも住居でも「人間もどき」といった差別語をぶつけられる被差別者で孤立している。そしてそんな被差別者である彼は人工知能が作り上げたホログラムの美少女に癒しを得ている。デッカードとバッティとセバスチャン、3人の個性を背負わされていて、3人に共通するのは被差別的な境遇にいる孤独な男ということだ。本作のKも孤独な戦いを繰り広げる。

Kは自分への差別を甘受しているかのようだが、そうではないと思う。捜査の過程で自分の出自からくる差別を塗り替えられるかもしれないと期待するし、それが失われた時に感情を爆発させる。「ゴズリングの押さえた演技が良い」といった映画評を見掛けたが、それは違うだろう。感情はあっても抑制しているレプリカントを演じているに過ぎない。しかし感情がないわけではない。だから希望が失われた時に抑制がきかず感情が爆発する彼に意味があるのだから。そんな苦い境遇に表情一つ変えずに耐えている孤独な男なのだ。

終盤、Kは人間的な振る舞い、行動によって物語を結末に導く。ラストの彼の表情は人間性そのものだといってよい。それなら彼を差別していたのは何だったのか?その出自?職業?それは彼が属するカテゴリーであって、彼個人のことではない。差別はその人のカテゴリーによって烙印を押される。出自、国籍、人種、肌の色、髪の色、障害、生活保護など。でも個人の個性と人格を知っても差別できるだろうか。優しい人間性をたたえた個人をカテゴリーだけで差別できるだろうか。そういうことを突きつけてる映画だと思えた。

ラストシーンでKに降る雪はロイ・バッティに降る雨と相似形である。

ブレードランナー

1982年、米国、リドリー・スコット監督作

植民星を脱走して地球へ潜り込んだレプリカント(人造人間)を捜査官ブレードランナーが雨のロスアンジェルスで追う物語。

www.youtube.comもうすぐ公開される『ブレードランナー2049』のための予習として再観賞。

過去の革新的な作品を若い人が見て「どこかで見たことのあるイメージばかりでどこが斬新なのか分からない」と言ったりすることがあるようで、それに対する言葉としては「そのありふれたイメージは全てこの作品から始まったのですよ」という物言いがある。
ブレードランナー』もそう言われる作品のひとつで、退廃的で暗く希望の無い未来を描いたイメージは今ではもう色んな映画で描かれてはいるが、全てはこの作品から始まっている。

しかしそうだろうかと思う。この映画を見てありふれた映画だと思うのだろうか。この映画が大好きだという贔屓目は多分にあるとは思うのだけれど『ブレードランナー』以後にこの作品を超える味わいを創り出した映画はあっただろうかと思う。

雨の未来都市、浮遊する乗用車、多様な都市住民、西洋(米国)を侵食する東洋文化、警察、探偵、猥雑な町、都市生活者の孤独、廃墟、巨大な建築物、レトロスペクティブ、高度な科学技術、原本と複製、悪夢、記憶、暴力、凄惨な個人的体験、男女の愛情、権力、逃走、奇形、機械、人間、飛散するゴミ、肉体と精神、銃、肉弾戦、高所の恐怖、不安、恐れ、焦燥感、生と死、等々、情報量の多い映画として語られるが、これほどまでに色んな要素を盛り込んで直線的にならずに非常に隠喩に富んだ表現で現した映画は『ブレードランナー』以後に知らない。どの場面も暗く陰鬱で美しい光景や清潔な場所は一度として画面に登場しないが、それでいてどの場面も美しい。徹底的に汚く淀んでいて不潔な様を描ききって美しさを滲みだしている。未来のデストピアを描いた映画は数多くあれど、これほど意味深で暗く淡い情感を醸し出す映画は21世紀になっても作られていないと思う。それほどオリジナリティーがあると思うのだけど。

改めてこの映画を見ているとリドリー・スコットは完成形を本当に思い描いていたのだろうかと思う。様々な要素をぶち込んでその結果出来あがってしまった世界がこの映画のような気がする。監督でさえも予測できなかったプラスアルファのものが充満していると思える。作ったのではなく出来てしまった作品のように見える。これほどのものを設計して作りあげることができるのだろうかという畏怖の念がそう思わせる。

あまりにも色んな要素が詰め込まれていてどのようにでも解釈できる映画で、何度でも
観られる作品だが、自分としては本作の中でレプリカントであるルトガー・ハウアーが吐く「俺が見たものをお前たちにも見せてやりたい」という台詞にいつも泣いてしまう。彼は戦闘用のレプリカントとして宇宙を転戦し凄惨な光景を見て来たという設定になっていて、地球でぬくぬくと暮らしている人間にこの台詞を吐く。
鬱病の症状なんて誰にでもあること」みたいな言葉を投げつけられた時にいつもルトガー・ハウアーのこの台詞が心の中に浮かぶ

ダンケルク

2017年、米国、クリストファー・ノーラン監督作

第二次大戦下、ドイツ軍の侵攻によりフランスのダンケルク海岸には40万人の英仏軍が追い詰められ包囲されていた。英国は兵士たちを母国に撤退させようと試み民間船までも動員する。

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良い。とても良い映画。全ての映像が広がりを感じさせて美しい。青い海と青い空がどこまでも広がっていて、そこを人間は船や飛行機といった機械を頼りにしなければ渡れないという絶望感が広がっている。そして音楽がそれをしっかりと映像を補強している。

この映画ではそこに登場する人物の行動しか描かれていない。海岸に追い詰められて撤退船を待つ兵士、その海岸の空を守るパイロット、そして兵士たちを迎えに行く民間船の乗員、彼等の行動しか描かれていない。凡百の映画なら合間に彼等を心配する家族や帰還を待つ恋人といったものを描くのだろうが、それらは描かれない。とても非演歌的である。
そのことを物足りないとかドラマがないといった感想もあるようだが、その硬質さが良い。ハードコアだといっていい。

撤退船を待つ兵士、その撤退船を采配する将校、空軍のパイロット、兵士を迎えに行く民間船の乗員、彼等の群像劇であるけれど、彼等はそれぞれのピンチ、苦難に出くわす。その連続で映画は構成されていて情にまみれた事情といったものは描かれていない。この構成は何だろうと思ったがよく考えると『MAD MAX FURY ROAD』のような映画だと思った。
ただそこで行われている事象だけを描いてそのバックストーリーは描かないけれど滲み出る情感がある。『MAD MAX FURY ROAD』もハードコアだったから。

Hidden Figures

2017年、米国、セオドア・メルフィ監督作

1960年代、コンピューター普及以前のNASAでは宇宙飛行の為の複雑な技術計算を黒人女性たちが手計算で行っていた。彼女たちは皆天才と言ってよい頭脳の持ち主だったが黒人であること、女性であることから正当な地位を与えられていなかった。
そんな環境の中、3人の黒人女性たちは、それぞれ学問の知識を活かして軌道計算に、技術者に、そして初期のコンピューターのプログラマとなっていく。が、黒人女性である彼女たちには数々の試練が待ち構えていた。

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映画でも漫画でもキメのシーンというものがあって、アクションものなら壮絶なアクションを決めた後の主人公の姿だったり、ヒーローものなら敵を倒した後のヒーローの立ち姿だったり、はたまた恋愛映画でも叶わぬ恋が成就した瞬間などがキメのシーンとして印象に残るものです。そういうものがバシッと決まっていると格好良い引き締まった映画になる。
この映画のキメのシーンはと言えば、計算のスペシャリストの女性が難解な軌道計算を解いてしまう、とか、技術者になる為に白人専用の学校に入学を許される場面とか、計算係のリーダーがIBMの大型コンピュータを独学でマスターした知識で動かしてしまう、といったものです。文章で起こすととても地味なのだけれど、それがどれもこれもキマッている。そこに辿り着くまでには、彼女たちが黒人であること、女性であることで理不尽な待遇を強いられるという経緯が描かれるから余計にぐっとくる。もうどの場面でも拍手喝采したくなる。ちょっと泣いてもうた。

黒人差別、女性差別を描いた映画だけれど、彼女たちが科学と技術というものを武器にした時に、差別なんて下らないと思わせる科学技術礼賛の映画でもあると思う。凄い感動作でした。音楽もファンキーで最高のブラックムービー。

最初、邦題が『ドリーム 私たちのアポロ計画』であったものが、アポロ計画を描いた映画ではないという指摘があり、『ドリーム』に変更された本作ですが、どっちの邦題もクソダサいので記事のタイトルは原題の『Hidden Figures』としました。

追記:2023年5月8日(月)
SF小説『宇宙へ/メアリ・ロビネット・コワル』を読み終えて、巻末の参考文献一覧によると、この映画の原作の題名が『Hidden Figures: The American Dream and the Untold Story of the Black Women Who Helped Win the Space Race』だと知った。そして邦題はこの題名からきていることに気付いた。
「クソダサい」とか書いてしまっているが、そのことを知らなかったので少し反省している。しかし「American Dream」と「ドリーム」では随分意味合いが違ってくるのではないの?という気もある。
でも知らずにキツイ言葉で書いたことはちょっとゴメン。