ナチス第三の男

2018年、フランス・イギリス・ベルギー、セドリック・ヒメネス監督作

ドイツ海軍を不名誉除隊したラインハルト・ハイドリヒは、婚約者の勧めからナチス党に入党して頭角を現し、やがて占領下のチェコ副総督として赴任する。しかし在英チェコ亡命政府は、ハイドリヒの暗殺を計画する。
原作は『HHhH (プラハ、1942年) 』。

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原作を読んでいたのでとても楽しみにしていたけれど、淡々と観てしまった。
セットや群衆シーンなど、とても大掛かりだったけれど、あまり感銘を受けるということがなかった。
原作は、前半がハイドリヒが出世するいきさつを描き、後半は彼の暗殺計画という構成だったと思うが、映画もそれに忠実に物語が進んでいたと思える。でも映画化するのには、削ぎ落とすところは削ぎ落として、どこかに焦点をあてるべきだったような気がする。
ハイドリヒの妻をロザムンド・パイクが演じていて、この人はなぜだか妖艶な魅力があるなあ、みたいなことを思ったりしたのでした。

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オン・ザ・ハイウェイ その夜、86分

2013年、英国、スティーヴン・ナイト監督作

建築技術者の男は、車に乗り仕事場である工事現場を出て妻と息子の待つ家に帰ろうとしていた。が、気が変わり高速道路をひた走ることになる。その先には、一度だけ浮気した女性が今夜彼の子供を出産しようとしている。

www.youtube.comとても面白い。
派手な演出は無い。無いどころか映像的には、運転する男と車内、そして車窓からの夜の高速道路、それだけの場面で構成されている。しかし、車内で男は運転しながら様々な人と電話で会話することにより人間ドラマが生まれる。

主人公は、明朝の大きなコンクリート打設工事の監督を放棄したことで部下に代理をするように指示する。しかし部下はあまりにも重大な責任を負わされることに尻ごみするし、嫌々ながら準備を始めるもののトラブルが幾つも湧いてくる。ここで交わされる会話はとてもスリリング。
そして主人公と上司の会話もまた苦渋に充ちたものになる。頼りにしていた現場監督が仕事を放棄することになるのだから。

妻と息子はサッカーの試合を主人公と見ようと家で待っている。なのに妻は、主人公が浮気したこと、彼の子供が今夜生れることを告げられ取り乱す。息子たちは最初無邪気にサッカーのことを話しているが、次第に母親の様子がおかしいと不安になる。

そして今まさに子供を出産しようとしている女からも心細いと電話がかかる。そこへ男は車を走らせる。

これらの人たちから次から次に電話が掛って来る様子だけで映画が成り立っている。でもそれがとてもスリリング。

不倫の話というのはどうにも好きになれなくて、それこそ自己責任でしょ?としか思わないのだけれど、主人公が過ちをおかしてしまったのも相手がとても孤独で淋しい女性だったから、という主人公の優しさが滲みでているのがやりきれない。

この映画で一番面白いと思ったのは、建築工事というものをとてもスリルのあるものに描いている点がとても珍しくてよくやった!という感じがする。ヨーロッパで最大級の建築基礎のコンクリート打設工事であるということが会話劇の中で明かされるけれど、コンクリート工事って失敗できないですからね。
よく自己啓発書だとかビジネス書だとかに「仕事は完璧を目指すな。7,8割で丁度良い」みたいなことが書かれていたりするが、技術職にそれは有り得ないですって。それでいいなら耐震偽装と言われたあの人も許してやれるの?って話だから。
そういう非常に厳しい完璧さを求められる仕事だということが会話の中で交わされて、幾つか見つかった不備もなんとかクリアしていくところがとてもスリルがある。でも正直言うとそんな大工事を一人の人間が仕切っているというのも現実的ではないし、コンクリートを打つ前の日にあんなにバタバタしてるようではあきませんやん、というのが本当のところだけれど、建築工事というものをスリラーに仕立て上げた映画なんて他に見たことないから。

セミオーシス/スー・バーク 著

環境破壊と戦争で荒廃した地球を十数人の人々は後にして宇宙に旅立ち、158年の冷凍睡眠を経て地球型惑星に辿り着いた。しかしそこには知性を持つ植物が住んでいた。 

セミオーシス (ハヤカワ文庫SF)

セミオーシス (ハヤカワ文庫SF)

 

 面白かった。読んでる間ずっと「次はどうなるのか」と楽しみになる物語だった。

地球人が惑星に辿り着いてから100年と少しの間を7世代の目を通して語るという形式で、惑星パックスは植物と小動物の世界だが、その中の竹に似た植物は高度な知性を持っている。当初はその<竹>と共存するのかどうかというところから物語が始まり、警戒すべきか協力して暮らしていくのかとどきどきしながらページをめくることになる。
物語が進むと、人類は<竹>と共存しお互いに持ちつ持たれつの関係となるように見えるが、果たして素直にそう信じていいものかという疑念も残りつつ物語は進み、そしてまた新たな事件が起こる。

異性に辿り着いた人類が知的生命体と出会うというファーストコンタクトもののSFでありながら、地球で培われた文明が失われ金属器さえも創り出せない文明になった人類が生き残るために行動するというロストテクノロジーものでもあり、サバイバルものでもある。そして、登場する少年少女の成長譚でもあり、彼等の社会における成長と混乱を描くお話でもあり、面白い要素が色々に散りばめられている。
その中でも一番のテーマは、対立か共生かというもので、<竹>や他の動植物と共存して生きて行くのか、はたまた彼等と主従関係を築いていくのか、それとも排除するのか、そういうことが描かれている。

SFというのは荒唐無稽な物語のようで、その設定は確かに夢想であるだろうけれど、そこで描かれるのは人間の行動なのでテクノロジーが発展した社会でも逆に失われた世界でも現代の物事と社会を映し出して描くことができる。
知的植物との共生、なんていうのは荒唐無稽な設定だが、それを外国人に置き換えるだけで本書で描かれている事柄が現実の移民問題と共通のものとして浮かび上がってくる。

ラストがどうなるのかはネタバレになるから書けないが、この小説の著者は女性ではないのかと思ったが、検索してみると確かにそうだった。そう思うと随所に女性的な面が表れているようにも思える。

第三回文学フリマ京都

京都の平安神宮の傍、みやこめっせという所で行われた『第三回文学フリマ京都』という催しに行ってきました。文学系同人誌の展示即売会と呼んでよいのでしょうか。そんな感じです。

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会場には沢山のブースがあって、各テーブルの上には色んな本が並んでいました。同人誌の即売会というものに初めて行ってみて、こんなに沢山の人たちが自分たちの本を作っていてそこに訪れる人がこんなに多いのかというのにびっくりしました。
一番驚いたのは、こんなにしっかりした本が作れるんですね、ということで、大手出版社の本と変わらないような立派な製本の本も沢山あった。行く前にはホッチキスで閉じたようなコピーで作った本が並んでいるのだろうかと思っていたので凄く感心した。

会場の一角には見本誌が置かれているコーナーがあって、展示されているの本の中身を見たり読んだりすることもできる。各ブースでも見本の冊子やプリントを配ってくれたりブース前で見本誌を見たりすることもできるという感じでした。小さな豆本なんかもあって見てるだけで楽しかったのです。
なんとなく気になった3冊ほどを買ってきたのですが、もっとお小遣いを持って行くべきだ。欲しいと思うものは他にも沢山あったから。

小学校の時にノートに書いた自作の漫画やお話をホッチキスで綴じて小冊子みたいにして作ったことがあったけれど、本を作る楽しみというのはあれが原点だろうな、と思いつつも、本にして自作を販売するということにはやってみないと分からない喜びがあるのだろうな。小説の本が多かった印象だったが、今はネットの小説投稿サイトもあるから自分の書いた物語を発表することは気軽にできるけれど、あんな風に本にするということはまた違う重みがあるだろうし。やはり行動して自分で何かを作るという喜びを持ってる人は偉いなあと感心したのでした。

徹底検証 日本の右傾化/塚田穂高 編著

現在の日本は右傾化していると言われるが、それらは現状どのようになっているか、どのような経緯を辿り今に至るのかを検証する。 

徹底検証 日本の右傾化 (筑摩選書)

徹底検証 日本の右傾化 (筑摩選書)

 

 
右傾化を測る題材として、差別主義、政治、教育、家族と女性、言論と報道、宗教、といった題材で多数の執筆陣によって現状とそうなった経緯が記されています。とても色んな論点があって感想をまとめきれないのだけれど、非常に危険なことだなあと改めて感じました。

現代の右傾化と言われるものの殆どが強い者の理屈で、差別主義であれば差別する側、政治であれば政権与党側、教育であればエリート主義、という風に強い側の理屈を補強し、それに正しさを求める考え方だと思います。
例えば、教育の話でゆとり教育というものに関してこのようなことが本書には書かれています。

文部省の諮問機関「教育課程審議会」の会長として、いわゆる「ゆとり教育」の原案となる答申を取りまとめた人物にも合った。文化庁長官も務めた作家の三浦朱門氏である。2002年の学習指導要領改訂で小中学校の授業時間と内容の三割削減が示される以前の取材だったが、〝ゆとり〟は平均学力の低下をもたらすのではないかとする私の質問に、彼はこう語った。
「逆に平均学力が下がらないようでは、これからの日本はどうにもならんということです。できん者はできんままで結構。戦後50年、落ちこぼれの底辺を上げることにばかり注いできた労力を、できる者を限りなく伸ばすことに振り向ける。100人に一人でいい、やがて彼らが国を引っ張っていきます。限りなくできない菲才、無才には、せめて実直な精神だけを養っておいてもらえばいいんです。それが〝ゆとり教育〟の本当の目的。エリート教育とは言いにくい時代だから、回りくどく言っただけの話だ」


とあります。このように、強い者を優遇し弱い者は我慢を強いられても仕方ないなぜなら弱いからだ、といった考え方は強者の理論でしかなく、それは自己責任論や弱者切り捨てと同根の考え方だと思います。で、その実直な精神を植え付けるためにやるのが愛国教育ってのがもう悲しくなりますよ。

新右翼の論客である鈴木邦男さんは、インタビュー

たぶん、人間は、体は右翼、頭は左翼なんですよ、きっと。

と仰っていて、けだし名言だと思うのです。
経済学者の松尾匡さんは自身のホームページで右翼と左翼について

世界を縦に切って「ウチ」と「ソト」に分けて、その間に本質的な対抗関係を見て、「ウチ」に味方するのが右翼である。
 それに対して、世界を横に切って「上」と「下」に分けて、その間に本質的な対抗関係を見て、「下」に味方するのが左翼である。

と書いていてこれもとても分かり易い。リンク先の図は更に分かり易いです。

これらにもうひとつ付け加えるなら右翼は強者に左翼は弱者にそれぞれ味方すると言っていいのではないかと思います。でも、左翼も天下をとれば強者を目指すし愛国教育もする。中国共産党を見れば軍事増強と抗日戦争を賛美することで愛国教育を行ってますから。右にしろ左にしろ全体主義と自由を制限する社会に碌なことはないです。

しかし鈴木邦男さんは今では左翼だと言われたりするし、尊皇でない右翼もいるらしいし、世の中が滅茶苦茶であることだけは確かでしょうね。