独裁者のためのハンドブック/ブルース・ブエノ・デ・メスキータ&アラスター・スミス 著

独裁者は如何なる動機、如何なる方法で国を統治しようとするかを考察する書籍。 

独裁者のためのハンドブック (亜紀書房翻訳ノンフィクション・シリーズ)

独裁者のためのハンドブック (亜紀書房翻訳ノンフィクション・シリーズ)

 

 本書は権力支持基盤理論と言われるものについて書かれた本で、その理論とは、訳者あとがきから引用すると

支配のありようを支配者とその権力の存立を左右する基盤となる人々との関係から解き明かそうとするものである。

とある。
独裁者に限らず、為政者という人たちがどのような人々から支持されて、どのような関係性を持っているかが数多の例をあげて解説されている。そしてそれは民主的に選ばれたリーダーにも共通している法則であるという。

端的にまとめてしまうと、独裁者というものは、その地位が長続きすることを望む。権力を長く行使したいと考え、そのように行動する。それには彼を支持する人が必要になる。本書では盟友集団という言葉が頻出するが、それは為政者の支持者のことで、独裁者にとっては彼の取り巻きの人々になり、独裁者の周りには少ない数の盟友がいて、彼らに富を分配することで独裁者は地位を保持している。軍部を握っている将軍や多数派の民族の族長のような人々に利益を供与することでその地位を保持している。
そして民主的に選挙で選ばれた為政者という者も盟友集団を持っていて、彼の支持者は選挙民であるから選挙民こそが盟友集団となる。そしてこの場合でも為政者は盟友集団に利益を供与する。それは選挙民から支持される政策を行うことで実現する。
小さな盟友集団を持つ独裁者は一部の取り巻きにだけ果実を与えておればその地位が確保できるので民衆の支持をとりつける必要がない。民衆から得た税収を取り巻きに供与することで権力は維持されるので圧制が敷かれ民衆は苦しむことになる。しかし、大きな盟友集団を持つ民主的に選挙された為政者は民衆の支持をとりつける必要があるので必然的に国民の為の政治を行うことになる。

というのが本書で書かれている一貫した理屈です。書き出してみると「そんなの知ってた」みたいな感じでもあるけれど、諸外国の事例を列挙して書かれた内容はとても興味深いものでした。

現在の日本の政治状況にあてはめて考えてみると、自民公明の連立政権というものは確かに民主的な選挙によって選ばれたものではあるけれど、彼らが通している法案というものは誰の為のものなのだろうかという疑念が拭い去れない。
本書で書かれている通り、為政者というものは支持基盤に何らかの「利」を与えなければその地位がおびやかされる。それならばカジノ法案は誰に「利」を与えるものなのだろう。残業代ゼロ法案と言われるような高度プロフェッショナル制度を内包した働き方改革関連法案で誰が「利」を得るのだろう。それらは大きな盟友集団である選挙民たちに向けられたものだろうか。どこかの小さな盟友集団だけに利益を提供するものなのではないだろうか。もしそうだとすれば、例え民主的な選挙で選ばれたとしてもその実態は小さな盟友集団を頼りに権力を維持し続けている独裁者の為政に近いことにならないだろうか。
大衆迎合主義といった民衆が喜ぶ政策だけが良い政治だとは思わないけれど、今の政治は誰の為に行われているのだろう。

そんなことを考えました。

美しく、狂おしく 岩下志麻の女優道/春日太一 著

岩下志麻さんにインタビューし、過去の出演作からその女優としての経歴をひもとく一冊。 

美しく、狂おしく 岩下志麻の女優道

美しく、狂おしく 岩下志麻の女優道

 

 

「好きな女優さんは?」と訊かれたら
「若い頃の岩下志麻さん」と答えるようにしています。

昔の日本映画を観るのがマイブームだったころがあって、その頃に小津安二郎監督作の『秋刀魚の味』という作品を観たのです。岩下志麻さんは笠置衆の娘の役で、彼女の結婚を世話するという家族劇だったのだけど、その可憐さに魅了されてしまった。もうその頃は『極道の妻たち』に出演していた時期で、あの人の若い頃はこんなだったのかという驚きもあった。
この画像を見てもらえればその魅力は伝わると思うのです。

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誰しもが認める美貌だと思うのだけれど。

その後、中村登監督作の『古都』では生き別れた双子の二役を演じたり、野村芳太郎監督作の『疑惑』では弁護士役で桃井かおりと対決したりと、その容姿以外、女優としての実力の部分でも好きな女優さんになりました。

本書を読むと彼女の役作りというのは、その役(人物)の心理状況を考察して内面から演じるというものらしい。
この女性はなぜこのような行動にでたのか、その時の心理状況は、元々どんな人物なのかということを想像して役になりきる。なので映画の中で役を演じているとその役が乗り移ったようになって実生活でもその役がでてしまい、撮影終了後もしばらくその役が抜けないらしい。
若い頃は精神科の医師になりたかったというで、そういう性格、心理についての研究に関心があるからできることなのだろう。

また、夫である篠田正浩監督と独立プロを立ち上げた時の苦労なども語られていて、ただの美貌だけの女優さんではないという印象を決定付けた一冊だった。ますます岩下志麻という女優さんのことが好きになりました。

そして著者は、この長い経歴を持つ女優さんの出演作をすべて研究してインタビューに臨んでいるわけで、その準備作業の膨大さを思うと途方に暮れる。女優の魅力を引き出すという意味でこの著者も凄いと思ったのでした。

東の果て、夜へ/ビル・ビバリー 著

ロス・アンジェルスの片隅でギャングの一味として麻薬を売買する「家」の見張りを担っていた15歳の黒人少年イーストは、ボスに命じられて組織の邪魔になる男を殺す役目を命じられる。4人組となった少年たちは北米大陸の東へ人を殺す旅にでる。 

東の果て、夜へ (ハヤカワ・ミステリ文庫)

東の果て、夜へ (ハヤカワ・ミステリ文庫)

 

 犯罪小説でありロード・ノベルである本作は少年たちの成長譚でもあり、とても感動的な物語だった。
「ボックス」と言われるLAの片隅の地区から出たこともなく、その中で麻薬売買をする「家」の見張りをすることで主人公の黒人少年は暮らしている。そして、その主人公の旅が描かれ、そこには他所の町では黒人であることが奇異に見られることや、チームとなった同じく黒人の少年たちとの葛藤や邂逅が描かれる。

なぜ小説を読むのだろうと考える。直接的には面白い物語と出会いたいから、と答えるしかない。ミステリーであれば、そのトリック、どんでん返しを味わいたいからだろう。そういうものを読めばスカッとして気分が良いから。快楽を求めて読んでいる。しかしそれだけだろうか。

なぜ小説を読むのか、なぜそれが楽しいかと考えると、恐らく自分と違った境遇の人間の心情を知ることができるから、ではないだろうか。
俺の人生において、LAでギャングとして生きることも、そこに所属する黒人少年として生きることもないだろう。絶対ない。極東の黄色人種として生まれた自分が黒人として生き、その境遇を味わうことは生まれ変わったりしない限りあり得ない。

でも小説を読んでいる間、読者である自分は黒人少年になっている。人を殺す任務を命じられた少年の心情を、緊張感を、ストレスを味わう。そういう心境で西海岸から東へ北米大陸を縦断する道中の景色をギャングの黒人少年として見る。そうやって読書でいる間、自分と違う人間の境遇、視点を知ることになる。

人の気持ちなんて想像しても仕方ないという人もいる。あれやこれやと他人の気持ちを察しても仕方ないというのも分からないでもない。そんなことを考えてもきりがいないというのも分からないでもない。しかし自分と違う境遇、立場の人間の気持ちは想像してみるしかない。沢山の色んな境遇の人と話をして色んな人の立場を知ることで人は大人になるけれど、無限にある他者の人生を知ることはできない。
でも小説ならそれが垣間見える。

大人になるということは世間を知るということで、それは色んな人の色んな事情を知ることだと思う。それは色んな人と出会うことで磨かれる。
誰しも自身の経験から法則を生み出してそれを基に世の中を計る。だから自分の観測範囲にない人の立場を置き去りにしがち。差別的な言辞を吐き出す人間は差別される人間の立場を知ることもないし知ろうともしない。
けれど小説を読むことで観測範囲にいない人間の立場を擬似的に得られるのだと思う。
そういう経験を思索をしなかった大人は歳をとっただけの子供でしかない。

京都旅行

GWを利用して京都旅行に行って来ました。

小谷美紗子さんの歌に「京都に海があるなんて誰も知らない」という歌詞があって、その歌詞をひもとくまでもなく、たいていの人が「京都」と聞いて思い浮かべるのは寺社仏閣のある京都市内のイメージだと思います。小谷美紗子さんは京都府日本海側の町の出身だということでこういう歌詞なのですね。

そんな京都府日本海側に一泊二日で旅行に行ってきました。

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だいたいこんなルート。車です。

 

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京都市を抜けるのに時間がかかるんですよね。写真は太秦広隆寺前。

 

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市域を抜けると山ばっか。朽木を通って小浜市に向かいます。この辺りは滋賀と福井。川がきれい。

  

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で、海。

 

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 で、海。

 

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パノラマ写真で海。

 


京都に海があるのがお分かり頂けたでしょうか。道中は山ばっかりでしたけどね。

レディ・プレイヤー・ワン

2018年、米国、スティーブン・スピルバーグ監督作

近未来、世の中は停滞し、人々はそんな現実世界から逃避して仮想現実空間である『オアシス』に耽っていた。しかし亡くなった『オアシス』の創設者が遺産と、この世界の運営権を仮想空間のどこかに隠したと宣言したことから人々は宝探しに奔走することとなる。

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スピルバーグ作品としては『1941』以来の大作バカ映画だと思う。

ジョン・ベルーシが出演した『1941』は太平洋戦争前夜のアメリカに日本の潜水艦が近づいてくることによって引き起こされるバカ騒ぎのコメディー映画だった。
スピルバーグ自身はこの映画があまり気に入っていないらしいが、俺はこの映画が好きだ。バカらしいから。

『レディ・プレイヤー・ワン』はそのバカ騒ぎがVR世界の中で行われる。『バック・トゥ・ザ・フューチャー』のデロリアンキングコングアイアン・ジャイアントバットマンロボコップガンダムメカゴジラ、アキラの金田バイク、そんな懐かしのキャラやアイテムが次々に登場する。その映像はCGを駆使していて縦横無尽に移動する視点(カメラ)で描かれる。何もかもやり過ぎだと思う。
でもこのやり過ぎ感がバカ騒ぎであり面白さなのだと思う。
登場人物が「俺はガンダムでいく」と宣言しガンダムに変身する場面は本当にバカらしい。悪役がメカゴジラに変身する場面も同様。バカらしさにバカらしさを重ねてやり過ぎ感を増幅させていく。

そしてそれがすべってる。それは『1941』も同じ。真面目で冗談なんか言わない男が存分にふざけてはみたものの周囲の人間はひいてしまうような感じ。

『1941』はスピルバーグの初期作で、もう十分ヒットメーカーとしての名前は獲得していたと思うが、それでも若気の至りの可愛い気があった。何より役者が演じるというフィジカルさがあった。
でも本作の悪ふざけは存分に金と技術を投入した金持ちの悪ふざけにしか見えない。

隠された宝物を主人公が見つけるハッピーエンド。そして教訓的な主題も、仮想空間でいくら充実していても駄目で現実でリアルな行動によって獲得するものが大事でしょ?というありきたりのもの。なんだかなあと思う。

過去のサブカル・アイコンが登場したことを喜んでいる人もいるのだろうが、そんなのノスタルジーでしょ?過去を懐かしむという感情を否定はしないが、そんな釣り針に喜んで食いつくような人間にはなりたくない。ノスタルジーを刺激されて無邪気に喜んでいるのなんて自分が老いた人間だと証明しているようなものだ。
そしてそれらが世界のスピルバーグ映画に登場することで、オタクのみなさん、あなたたちが愛したものは決してくだらないものなんんかではなく世界のスピルバーグも認めているものんなんですよ、って感じ。でもそんなの権威主義ですやん。
オタクの人って「アニメは世界的に認められている」とか「著名な映画監督も日本アニメのファンだ」とか言いたがるけどそれが何なん?それって権威主義じゃないの?
その心の裏には「僕たちが好きなものは決してくだらないものじゃない」みたいな気持ちが透けて見える。それは「アニメなんてくだらないもの」と言われてきた反動なのだろうけれどそれってなんだかなと思う。
くだらないものでもいいやん。自分が好きなら。他人に「あなたたちが好きなものは決してくだらないものなどではないんですよ」と言って欲しいの?認められたいの?そんな必要ないでしょう。この軟弱者!