レディ・プレイヤー・ワン

2018年、米国、スティーブン・スピルバーグ監督作

近未来、世の中は停滞し、人々はそんな現実世界から逃避して仮想現実空間である『オアシス』に耽っていた。しかし亡くなった『オアシス』の創設者が遺産と、この世界の運営権を仮想空間のどこかに隠したと宣言したことから人々は宝探しに奔走することとなる。

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スピルバーグ作品としては『1941』以来の大作バカ映画だと思う。

ジョン・ベルーシが出演した『1941』は太平洋戦争前夜のアメリカに日本の潜水艦が近づいてくることによって引き起こされるバカ騒ぎのコメディー映画だった。
スピルバーグ自身はこの映画があまり気に入っていないらしいが、俺はこの映画が好きだ。バカらしいから。

『レディ・プレイヤー・ワン』はそのバカ騒ぎがVR世界の中で行われる。『バック・トゥ・ザ・フューチャー』のデロリアンキングコングアイアン・ジャイアントバットマンロボコップガンダムメカゴジラ、アキラの金田バイク、そんな懐かしのキャラやアイテムが次々に登場する。その映像はCGを駆使していて縦横無尽に移動する視点(カメラ)で描かれる。何もかもやり過ぎだと思う。
でもこのやり過ぎ感がバカ騒ぎであり面白さなのだと思う。
登場人物が「俺はガンダムでいく」と宣言しガンダムに変身する場面は本当にバカらしい。悪役がメカゴジラに変身する場面も同様。バカらしさにバカらしさを重ねてやり過ぎ感を増幅させていく。

そしてそれがすべってる。それは『1941』も同じ。真面目で冗談なんか言わない男が存分にふざけてはみたものの周囲の人間はひいてしまうような感じ。

『1941』はスピルバーグの初期作で、もう十分ヒットメーカーとしての名前は獲得していたと思うが、それでも若気の至りの可愛い気があった。何より役者が演じるというフィジカルさがあった。
でも本作の悪ふざけは存分に金と技術を投入した金持ちの悪ふざけにしか見えない。

隠された宝物を主人公が見つけるハッピーエンド。そして教訓的な主題も、仮想空間でいくら充実していても駄目で現実でリアルな行動によって獲得するものが大事でしょ?というありきたりのもの。なんだかなあと思う。

過去のサブカル・アイコンが登場したことを喜んでいる人もいるのだろうが、そんなのノスタルジーでしょ?過去を懐かしむという感情を否定はしないが、そんな釣り針に喜んで食いつくような人間にはなりたくない。ノスタルジーを刺激されて無邪気に喜んでいるのなんて自分が老いた人間だと証明しているようなものだ。
そしてそれらが世界のスピルバーグ映画に登場することで、オタクのみなさん、あなたたちが愛したものは決してくだらないものなんんかではなく世界のスピルバーグも認めているものんなんですよ、って感じ。でもそんなの権威主義ですやん。
オタクの人って「アニメは世界的に認められている」とか「著名な映画監督も日本アニメのファンだ」とか言いたがるけどそれが何なん?それって権威主義じゃないの?
その心の裏には「僕たちが好きなものは決してくだらないものじゃない」みたいな気持ちが透けて見える。それは「アニメなんてくだらないもの」と言われてきた反動なのだろうけれどそれってなんだかなと思う。
くだらないものでもいいやん。自分が好きなら。他人に「あなたたちが好きなものは決してくだらないものなどではないんですよ」と言って欲しいの?認められたいの?そんな必要ないでしょう。この軟弱者!

DESTINY/松任谷由実

YouTubeで曲名検索したらカバーとスライドショーが釣りバトルしてて地獄』

というタイトルのブログ記事を読んだ。タイトルで全てが語られている通り。
確かにそう思う。検索して「歌ってみた」みたいなのが大量に引っ掛かるとうんざりすることはよくある。youtubeあるある。

しかし意識的にカバーを探すこともあるんですよね。この名曲を歌っている他の歌手はいないものかと。そういう時には大量に引っ掛かる素人の動画にも目を通すことになる。

最近FMcocoloはなぜかユーミン推しで松任谷由実の曲がよく流れる。特に好きでもないがやはり人気のある歌手なので知っている曲も多いわけです。でもそんなに好きってわけでもない。
なのにこの曲が流れて来て、ああいい曲だなあ、と思ってしまった。

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79年の曲の割には今でも聴ける感じで、そう思うと当時は先進的やったんかなとも思う。で、今の歌手がカバーしているものはないのかしらと思って検索していたら素人カバーなどもひっかかるわけです。で、その過程で見つけてしまったのがこれ。

 

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おじさんが松任谷由実のカラオケを歌っている。それだけ。
最初聴いた時は非道いと思った。ユーミンのテイストが一ミリも含まれていない。しかしなぜか気になってしまった。以来何回も聴いてしまった。するとだんだん悲しくなってきた。カセットテレコを前に畳の部屋で一人でユーミンを歌うおじさんの姿を想像して淋しくなって涙さえ滲んできた。
歌詞には「悲しきDESTINY」という部分があるがユーミンの歌はちっとも悲しくない。おしゃれな恋模様でしかない。しかしこのカバーを聴いていると確実に悲しくなる。おじさんが絞り出す高音に悲しみと淋しさが滲みだす。原曲がポップなのに対してこのカバーはブルースだと言って良い。
勘違いして欲しくないのは、インターネットでちょっとした変わり者を見つけて晒しものにするようなそういうことをしたいんじゃない。統合失調症の人が書いた誰かに監視されいているといった内容のブログを見つけてきてウォッチしながら笑い物にするようなそんなことをしたいんじゃない。
悲しさや淋しさを表現した歌手としてこの投稿者は松任谷由実を数百倍上回っている。原曲を忠実にカバーしているのに本家の歌手が描いたものよりもそれを反転したうえで120%のものを表現している。悲しいという一点においてユーミンよりもこの投稿者の方が確実に勝っている。

こういうものが見つかるのだから検索結果にカバーがひっかかるのも悪くないんじゃないんですか、という意見です。

シェイプ・オブ・ウォーター

2018年、米国、ギレルモ・デル・トロ監督作

科学研究所で掃除婦として働く主人公の女性は、秘密の研究施設で半魚人が囚われていることを知る。声を発することができない彼女は、身ぶり手ぶりでその半魚人と交流を持つことになりやがて好意を抱くようになる。しかし研究施設の幹部たちはその半魚人を抹殺しようとする。

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本作はアカデミー賞で様々な賞を獲得したらしい。

しかしのれなかった。映画のリズムというかノリについていけなかった。なぜなのか自分でもよく分からない。

言葉を発することができない主人公、そして囚われのモンスターというマイノリティの抵抗のお話という主題は嫌いではない。というか好きな部類。

時代設定も60年代のアメリカでそのノスタルジックな光景は良い味をだしてる。

そして美男と美女ではなくモンスターと決して美しいとは言えない普通の女性の恋愛というものも悪くない。

しかし映画を観ている間どうしても映画のリズムにのれなかった。それほど面白いと思えず感情移入もできなかった。なぜなのか分からない。体調だろうか。本当になぜ面白いと思えなかったのかが分からない。謎です。

主演のサリー・ホーキンスPJ Harvey に似てるなとちょっと思った。

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僕の名前はズッキーニ

2016年、スイス・フランス、クロード・バラス監督作品

母親を失くした9歳の男の子、ズッキーニは孤児院に預けられることになった。しかし其処暮らしている子供たちは皆分けありで暗い過去を引き摺っていた。

最初こそ衝突はあったものの、やがてズッキーニは孤児院での暮らしに慣れていく。そこへ新しく入所してくる女の子がいた。

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予告編を観てお分かりのように人形アニメーションの作品です。我々が人形アニメーションの映画を観賞する時には、これは人形を動かしてひとコマずつ撮影した映画なのだということを了承しながら観る。膨大な時間と労力をかけて映像が作られているということを意識しながら観る。なので「人形なのにこまやかな演技がなされていて凄い」とか、「コマ撮り撮影なのにこのスペクタクルシーンは驚くべきものだ」という感動がある。つまり人形アニメーションの技術に感動するという点が大いにある。

本作は確かにそういう点でもとても行き届いた映画だと思う。人形の細やかな動き、愛らし表情、手の込んだセット、そのようなものに対する感動は確かにある。

しかし映画を観ているとそのようなことは忘れてしまう。登場人物の子供たちは親が犯罪を犯して刑務所に入っていたり、故国へ送り返されたり、何かしらの悲しい過去を持っている。そんな子供たちが対立し、やがて打ち解け、ついには恋にまでおちる。その様を観ていてどのキャラクターをも好きになる。
恐らく実写映画で同じ物語を作っても同じ感動は得られないだろう。リアルだから。人形が演技することによってファンタジーのような味わいがあり、実在の人間の生臭さが消える。フィルターを通しているような感じ、少しろ過された感じ、浄化されたような感じ。

本作にはファンタジーの要素は皆無だけれど、人形アニメでしか味わえない情感を使って暗い話を明るく可愛く見せてくれる。泣ける人形アニメーションなんて観たのは初めてだと思う。

コードネーム・ヴェリティ/エリザベス・ウェイン 著

第二次大戦時、ナチス占領下のフランスに潜入していた英国の女性スパイが囚われる。ナチスによって過酷な尋問を受ける彼女は、尋問に応える代わりに小説めいたものを書き始める。それは彼女の親友である民間飛行士の女性パイロットの物語だった。しかしその物語にはある意味が隠されていた。 

コードネーム・ヴェリティ (創元推理文庫)

コードネーム・ヴェリティ (創元推理文庫)

 

 面白かった。帯には

「謎」の第一部。「驚愕」の第二部。そして、「慟哭」の結末!

と書いてあってその通りだった。

第一部は英国のスパイであるクイーニーと呼ばれる女性がナチスに囚われ、彼女が捕虜として囚われの身の状態で書いた物語のような手記が続く。そして第二部では…、というところまでしか言えない。ミステリーのネタをばらすほど不作法なことはないから。

しかし第一部はそれほど「謎」ではないのです。勿論、第二部で明かされる様々なことが埋め込まれているし、英国の機密情報を書けと言われていている彼女がそのような物語を書くことは謎ではある。記述が食い違うと思われる部分があったり意味の分からない部分があったり謎な部分はある。
しかし民間の飛行士だった女性と女スパイになる女性が友情を紡ぎ出す過程が描かれていて、この部分が戦時下の青春小説として十二分に面白い。飛行機に憧れる女の子が民間の航空機のパイロットになり、やがて戦争の補助として軍用機を操縦することになり、そしてその過程で彼女と出会い親密になる。そんな二人の成長を記した物語として楽しめる。

で、第二部ではそれらの絡まった糸がほどけて再び編み合わされる様が驚愕なのです。こんな構成の小説もあるのかと思えた。本当に感心したし、第一部で描かれた女性二人の友情があったからこそ泣けた。ミステリーとしての謎解きだけにおさまらず、戦争の理不尽さを描いた小説としてもとても興味深い小説だった。

本書は米国のヤング・アダルト部門での賞を受賞しているらしい。ヤング・アダルトというのは中高生、若しくは若者向きくらいのことだろうか。日本ならライトノベルなんかがそうなのだろう。米国のその年代に向けた作品の奥深さに感心すると共に、日本の作品でも大人が読んで感心するような作品が自分は知らないだけでいっぱいあるのだろうということを思ったのでした。