デトロイト

2018年、米国、キャスリン・ビグロー監督作

1967年、米国デトロイトで起こった大規模な暴動は、警察だけでを鎮圧できずに州兵までが出動する事態になっていた。暴動が発生した夜に、あるモーテルから警官に向けて発射されたおもちゃの銃が切っ掛けでモーテルの客たちは警官から過酷で無法な尋問を受ける。事実を基にした物語。

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あまり感心しなかった。
米国の暴動が黒人に対する差別的な警察の活動が鬱憤となって累積しそれが爆発したものだということは分かる。そして映画で描かれている黒人少年たちへの白人警官の尋問が常軌を逸していて差別的な行動だということも分かる。しかしあまりにも善と悪、白と黒とに明確に線引きされた描き方はどうなのだろう。その場所で行われたことが、明らかに権力による悪と罪もなき市民が受けた迫害だったのかも知れないが。

歴史的な史実を描くのに現代の基準で善と悪とに明確に区分けしてしまうのは危険、というか簡単過ぎないだろうか。今の常識で問えばそうなのだろうが、過去の問題を現代の物差しで断罪するのは甘過ぎやしないだろうか。
善と悪とにきっぱり分けてしまう物語を簡単に信用することができない。そんなものはマーベル製のヒーローショーでやればいいいのではないだろうか。善にも影があるし悪にもそれなりの理由がある。そういう苦さを描き出した物語の方に奥の深さを感じてしまう。善悪がはっきりしたものは分かり易いのだろうけれど。

陰湿な白人警官を演じたウィル・ポールターが死ぬほど憎たらしい。映画を観ている間吐き気がするほど憎い。これは俳優としては最高の仕事をしたということではないだろうか。素晴らしい。素晴らしく憎い。

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小杉武久 音楽のピクニック@芦屋市立美術館

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小杉武久さんというのは1950年代から活躍している前衛音楽家です。タージ・マハル旅行団というバンドに在籍していた人で『ライブ・イン・ストックホルム1971』という盤が凄く好きで一時期よく聴いていました。70年代にこんな即興音楽があったのかという驚きもあった。

美術展は氏の活動の軌跡を紹介するもので、正直どんな人なのか知らなかったのがよく分かるものでした。60年代、70年代のライブ告知のチラシやポスターが展示されていてそのグラフィックが凄く格好良くて。時代は変わっても格好良いものは変わらないのだと思いました。
他には電子回路で組んだ微音を出す装置も作品として展示されていて、ただ「ジジッ」と音を出してるだけなのだけれど、そういうものが展示されそれを鑑賞することが面白い。こういうものだったら俺でも作れるんじゃないかと思わせる簡素さも良かった。なんか色々やる気になるというか。

ただ、小杉氏は東京芸大を出た音楽のエリートといっていい人で、だからこそ、その活動がこうやって認められてもいるし作品が美術館にも展示される。でも氏の作品の電子回路が「ジジッ」と音を出すものだけを見て誰が作ったものかも知らないならそれを面白いと思えるのだろうかということは考える。というか前衛音楽や即興音楽といったジャンル名と記名性を取っ払えばやってることはノイズミュージックをやってる人と同じじゃないのか、とも思う。自分にしてもこれを美術館で見るから面白いと思うのであって、日本橋の電子部品店の店頭ワゴンにこれがあっても面白いと思えるのだろうかと。たぶん思わないだろう。それはやっぱり作った人の名前に惑わされているだけで音やその作品だけを評価してるんじゃないのだろうな。そういうところになるべく惑わされずに音楽を聴きたいけれど永久に逃れられないのかも知れない。

そんなことを考えました。

ボーダーライン

2016年、米国、ドゥニ・ヴィルヌーブ監督作

誘拐事犯専任のFBI女性捜査官は、誘拐事件の根源であるメキシコ麻薬カルテルの大元を検挙したいことから国防総省の活動に出向することになる。しかし、傍観者として参加させられるだけでしかない。やがて彼女は同行する謎の南米人と共に危険な犯罪捜査に巻き込まれて行く。

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ドゥニ・ヴィルヌーブ監督の『メッセージ』、『ブレードランナー2049』と観てきたが、それ以前の作品を観ていない。ということで観賞した本作ですがヴィルヌーブ作品の静けさというものが既定のものだという感じがした。とても静かなアメリカ映画だった。音楽や音響の問題だけでなく間の取り方みたいな感じだろうか。兎に角静か。でもそれは派手なハリウッド作に慣れた気分がそう言わせるのかも知れない。現実の世界は日常の行動のバックに派手なBGMとか流れないから。

構造が少し変わっていて、主人公として設定されているのはエミリー・ブラントが演じる女性FBI捜査官であるが、本当の主人公はベニチオ・デル・トロ演じる謎の南米人だと言っていい。エミリー・ブラントは終始、蚊帳の外で捜査に同行している立ち場でしかない。なぜその立ち位置であるのかも映画の中で明かされるけれど、観客は傍観者の目を通して映画の物語を追うという構造になっていて、少し変わった視点から物語を観察することになる。映画でも小説でも物語の新規性ではなく、構造の新規性を見せてくれるものはとても面白い。漫才だとジャルジャルとか。

傍観者を通して観客は物語を追うことになるけれど、最後には辻褄が合い、納得することになる。とても整合性がとれている。ほころびがない。そう思うと『ブレードランナー2049』で完璧な続編を作ったのもそういうことなのかなとも思う。

まだまだヴィルヌーブ作品は観てみたい。

アル中病棟/吾妻ひでお

アルコール中毒になり入院した経験をもつ著者が病棟での生活を記録する実録漫画。 

失踪日記2 アル中病棟

失踪日記2 アル中病棟

 

 実録漫画とは言いつつも吾妻ひでおさんのまるっこい絵柄で描かれる漫画には暗いどろどろしたところはないです。病棟にいる色んな患者の奇妙な行動が描写されギャグ漫画として成立しているので面白く読める。実際はアル中なんて悲惨この上ないことだろうけどそこは作者の腕前なのでしょう。

ちょっと前にはてなでパチンコ中毒で身を持ち崩して生活保護に至ってしまった人の記事があって、それに対してパチンカスだとか、パチンカスなんて言葉を使って差別するな、みたいな話題があった。大方はパチンコで借金をこさえて生活が破綻するなんて迷惑極まりないといった意見のように見えた。
確かにその通りではあるけれど、ギャンブル依存、アルコール依存というものにそれほど厳しい目を向けることができない。なんだかそうなってしまう人の弱さの方に共感してしまって。それは自分が弱い人間だから自分を肯定する為にも弱い人間を肯定しようという気持ちなのかも知れない。あまり強い人に憧れないから。成功した経営者の独白のようなビジネス書とか読みたくないし。でもあれはギャンブルに勝った人間の物言いでしょう?万馬券を当てた人間の語る競馬必勝の法則とどれだけ違うというの?会社経営なんて知力と努力も必要だろうけど時勢や運に恵まれたことも大きいいのではないだろうか。それと周りの人間、社員。それを全部自分の手柄みたいに言うの大袈裟だと思うのだけど。あーいう偉いさんの説く修身とか説教とか嫌いだし。
中島らもみたいに自身のアル中経験を文学に昇華させてしまう人の方がよっぽど好きだわ。弱さと知性を兼ね揃えてる人の方が好きだ。ただ強いだけのおっさんは嫌い。

吾妻ひでおの『アル中病棟』も自身の弱さとアル中に陥ってしまう人々の弱さがその滑稽な行動の裏にあることが読み取れてとても愛らしい漫画です。身内にいたらかなわん人やなと思うんだろうけど。

明るい夜にでかけて/佐藤多佳子 著

トラブルを抱え大学を休学し、生活をリセットする為に親元から離れて深夜のコンビニで働く主人公の男子は深夜ラジオのファンで、かつてはちょっと名の知れたハガキ職人だった。彼の元へ同じく深夜ラジオ好きの級友や風変わりな女子高生、ニコニコ動画で歌を披露するコンビニバイトの先輩が集まって来る。 

明るい夜に出かけて

明るい夜に出かけて

 

 高校生から20代中盤までの男子や女子を描いた小説で青春小説といって良いものだと思います。佐藤多佳子さんの作品はどれも悪人がでてこない小説で本作もその通り。読んでいる間ずっと楽しいです。

アルコ&ピースオールナイトニッポンという深夜ラジオを軸に話は展開していきます。女子高生はその番組で強者の葉書職人。滅多に貰えない番組ノベルティーを彼女が持っているのをみつけて主人公はつい話しかけてしまったり、自分のラジオネームを明かしてしまったりする。そんな風に物語は進んでいく。
読んでいて具体的な番組名が出てくるのってどうなのだろう、と思っていたけれどこれはこれでいいのじゃないかと思えました。普遍的な物語にしようとすればそれらしい架空の番組を設定するのだろうけれど、実在の番組名を使うことで今現在を描いている感じがする。他にも、LINEで連絡を取り合ったり、ニコ動で生放送をする場面があったり、現代の若者の習俗を描いていると思う。現代をきっちり描くことで時代の記録になるわけだし。
明治、大正時代の小説を読んでいても時代を意識して読むわけだから、この小説も2010年代のお話だと意識して読むことでその時代を感じる資料的な価値もあるのじゃないだろうか。

一昔前にはラジオって小さな交流の場所だったと思う。葉書を送り、それが読まれたりすることでなんだか番組のリスナー同志で仲間意識が芽生えたりする感じ。番組のイベントとかもあって大いに盛り上がったりして。でも今はインターネットとスマホの時代でSNSがあってラジオはそういう求心力を持っていない。それを今の時代の物語として深夜ラジオとSNSと現実での交流にまとめあげたのは目の付けどころが凄いのじゃないかな。佐藤多佳子さんの小説は『しゃべれどもしゃべれども』では落語、『神様のくれた指』ではスリ、『一瞬の風になれ』では陸上の短距離走、と少し人がとりあげない題材を起点にそこにる若者たちの機微を描いていてどれも素晴らしいです。

読んでる間ずっと心地良く、家に帰ればまたあの本の続きが読める、と楽しみになるようなそんな小説でした。佐藤多佳子さんの作品はどれも読後感といわず読中感がとても良いです。