この世界の片隅に

2016年、日本、片渕須直監督作
太平洋戦争当時、18歳で呉にお嫁に行った主人公の生活を描くアニメーション作品

www.youtube.comとても良い映画だったと思います。小さなエピソードを重ねていくことで時代と場所を描くという丹念な仕事が窺える映画でした。

映画を観終わって一番最初に思い出したのは山田洋次監督の『小さいおうち』でした。

小さいおうち - 8月~12月
『小さいおうち』は実写映画ですが、ある一家とそこに住みこみで働く女中の視点から戦時中の日常を描くことで戦時下の庶民の姿を描いていました。で、『小さいおうち』は山田洋次による小津安二郎リスペクト映画なんですよね。小津映画に出てくるモチーフも登場するし。
小津安二郎の映画というのは家族劇で、普通の人の普通の生活を描いてる。事件ともいえないような出来事が起こってそれにまつわる人たちの生活の機微が丁寧に描かれている。

こういう映画って大事だなと思うんです。映画でも小説でも偉人、天才、英雄といった特別な人を描く。その方が面白いってのは分かる。非日常を観たいという欲求はあるから。でもやっぱり普通の人も描いて欲しいんですよね。普通の人の普通の生活こそがその時代の殆どを支えているわけで、特別な人を時代のイコンとして描くのもいいけど、でも普通の人も描いて欲しい。

普通の人間の日常を描いて面白い映画にする方がたぶん難しいと思うんです。特別な人が特別な時代に特別な事件に巻き込まれれば否が応にも面白くなる。でも日常生活なんて小さなさざなみみたいなものを見せるのは丁寧さというか丹念な仕事というかそういうものが必要になってくると思う。小津安二郎は映画の中にでてくるセットや小物にまで自分の美学を徹底した人で食卓に並ぶ食器、女優が持つ手ぬぐいの柄にまでこだわっていたという。そういう細かい目配りが美しい日常を描き出すのだと思う。

アニメーションというのは描かなければ何も表出しないわけでそれがゆえに大変な労力が必要になる。映画ならそこにある風景を写せば画はできあがるけれど、アニメーションではその風景さえも全て描かなければならない。
しかし逆に言うと画面の隅から隅まで演出を施すことも可能だということになる。実写映画なら風景の一部に映したくないものがあっても映り込んでしまう。黒澤明のように「あの雲をどけろ」なんて言える監督ばかりじゃない。でもアニメーションならそれができる。画面の中に現れる草も虫も風景も人も皆、製作者が描きたいものを描くことができる。それは大変な苦労だけれど、『この世界の片隅に』はそれをやってのけたということだろうと思います。丹念な仕事、丁寧な演出が画面の端から端まで行き届いていてその全てを観客は理解しておらずとも伝わるものがあるということだと思う。

山田洋次監督も本作をお褒めになっておられるということで、やはり何か通じるところがあるのではないかと思うのでした。

 

いま世界の哲学者が考えていること/岡本裕一朗 著

書名の通り、世界の哲学者たちは今どんな問題に取り組んでいるのかを紹介する本。

いま世界の哲学者が考えていること

いま世界の哲学者が考えていること

 

 目次を列記すると
1章 世界の哲学者は今、何を考えているのか
2章 IT革命は人類に何をもたらすのか
3章 バイオテクノロジーは「人間」をどこに導くのか
4章 資本主義は21世紀でも通用するのか
5章 人類が宗教を捨てることはありえないのか
6章 人類は地球を守らなくてはいけないのか

という感じです。
第一章にも書かれていて、日本では哲学というと「人生論」を語るものというイメージですが、そうではないんですよ、世の中の色んなことについて哲学者は考えているんですよ、ということを浅く広く伝える内容です。

目次を見ると、情報技術、生命科学、資本主義、宗教、環境問題といった技術や経済、宗教といったものについて世界の哲学者が思索をめぐらせていることが分かります。こういうことって社会学みたいな分野の人がやることだと思っていました。文系学問の領域にあまりにも無知なのを痛感します。

技術も経済も宗教もそれぞれに専門分野の学者がいるわけで、専門の人たちが先鋭的に深く研究しているものを、哲学者は俯瞰したり人間社会にどんな影響があるかを推し量るという感じでしょうか。
面白いのだけど、物の見方を提示しても世の中というのはどんどん進んでいくわけで、その辺りは少し無常感が漂います。決して無駄なことだとか言うつもりはないのだけど、世の中を変えるのは言葉じゃなくて技術だと思っているので。

きみの言い訳は最高の芸術/最果タヒ 著

詩人である著者による随筆集

きみの言い訳は最高の芸術

きみの言い訳は最高の芸術

 

 少し前にとある音楽家が「音楽に罪は無い」とtwitterでつぶやいていた。確かに罪はないだろう。ある音楽を聴いて、それに触発された人物が殺人を犯したとしても音楽がその契機だったとは立証できないのだから罪を問われることはないだろう。というかそもそもそういうこと自体が有り得ないだろう。音楽を聴いて発狂する人間は幾らかはいるかも知れないが、そんなことはあまり起こらない。激しく陰鬱な音楽を聴いたからと言って犯罪を犯すということはない。犯罪を犯す奴がその音楽を聴いていたに過ぎない。
「音楽に罪は無い」というのは正しくその通りだとは思うが、罪を犯すほどの効力もないと云えるかも知れない。心臓が熱くなるというくらいのことはあるだろうが、人を狂わせるほどの魔力がある音楽があるなら是非聴いてみたい。チャールズ・マンソンの録音した音楽がそういうものだなんて言われたけど眉唾でしょう。きっと。

文章でなら人を動かすことは出来るとは思う。テロリストの思想的指導者といった人物はその言動、出版物が教唆に値するとして投獄されることはある。言葉で人を正しいにしろ間違っているにしろ動かすことは出来る。宗教も同じようなものではないだろうか。言葉によって広められ信者を獲得し彼等を動かす力を持つ。
科学書や経済書や教科書といったものに書かれた言葉は人を動かすものではないけれど、情報を伝達するという機能がある。それは実利的だと思う。

「詩」というものを考えたなら、詩が人を動かすことはあるだろうか。一般的に想像する「詩」が人を動かすとは思えない。人を扇動する詩というものがあるのだろうか。不勉強ながらそういうものがあるのかどうか知り得ない。

「詩」というものにあまり価値を見いだすことができないでいる。好きでないのであまり接していない、だからあまり知らないというのが本当のところです。俺の思う「詩」というものは美麗な言葉で装飾された特に機能を持たない言葉というイメージです。現実の物に例えるならばアクセサリーや貴金属のような装飾品だろうか。綺麗で美しいのだろうけれど、実用的な価値は何もない。でも価値は人々に認められている。そういうところが装飾品と「詩」は似ているような気がする。

不勉強な中でも好きな詩人はいて、唯一好きなのは山之口漠で、明治後期に生れた沖縄出身の詩人です。好きな一篇を引用してみる。

 『妹へ送る手紙』

 

なんという妹なんだろう
兄さんはきっと成功なさると信じています とか
兄さんはいま東京のどこにいるのでしょう とか
ひとづてによこしたその音信のなかに
妹の眼をかんじながら
僕もまた 六、七年振りに手紙を書こうとはするのです
この兄さんは
成功しようかどうしようか結婚でもしたいと思うのです
そんなことは書けないのです
東京にいて兄さんは犬のようにものほしげな顔をしています
そんなことも書かないのです
兄さんは、住所不定なのです
とはますます書けないのです
如実的な一切を書けなくなって
といつめられているかのように身動きも出来なくなってしまい
満身の力をこめてやっとのおもいで書いたのです
ミナゲンキカ
と 書いたのです

 という感じです。とてもみずぼらしくて貧乏くさくて駄目人間ブルースなところが好きです。こういう情感が好きなのだと思う。

「詩」は装飾品のようなものと書いたけれどお香のようなものかも知れない。ただ香りを楽しむだけの他に何も実利のないようなもの。味覚を楽しませる為に探し歩いて美味しいものを食べるけれど、やはりそこには栄養価という実利が伴う。嗅覚を楽しませるだけの香にはそれ以上の効用はない。リラックス効果だとかそういうものはあるかも知れないけど、それだって定量的なものではない。
そう思うと音楽もイメージや空気を創出して聴覚を楽しませるだけだから同じかも。詩もその言葉によってある感情や雰囲気を心の中に湧き起こすものだから同じなのかも。でも小説だって物語という構造はあるけれど、読んで何があるかというと感情が湧きあがるというだけだから同じかも知れない。何も実利はないけれどその心の中に湧きあがるものを楽しむというのはお香や音楽と似ているかも知れない。そう考えるとエンタメも文学もみなそうか。よく分からなくなった。

実利や機能を持たないけれど空気感を創出している随筆集でした。

保存

保存

保存

20 Jazz Funk Greats/THROBBING GRISTLE

 

20 Jazz Funk Greats

20 Jazz Funk Greats

 

 どんなジャンルにも押さえておく古典というものはあるもので、パンクスならSEX PISTOLSを聴いたことは必ずあるだろうし、ハードコアが好きならDISCHARGEを聴いているだろう。メタルならBLACK SABATH、ファンクならJames Brown、テクノならDerrick May、演歌なら美空ひばり、等々ジャンルの始祖という人たちはいて、そのジャンルを探っていくと先ず出会う元祖という人たちがいる。
ノイズ、インダストリアルにおいてのTGというのはそういう人たちだと思う。他にもWHITE HOUSE、SPK、MB等々いっぱいいらっしゃいますが、TGの名前はことあるごとに出てくる。

でもここら辺って殆ど聴いてないんですよね。なんでかというと高かったから。もう俺がレコード屋に通うようになった頃にはここら辺のレコードというのは高いものだった。
WHITE HOUSEなんてそのジャケットから不気味な魅力がぷんぷんしていたけれど、これを買うくらいだったら他のが2枚買える、そう思って聴かないまま来てしまった。

TGの『20 Jazz Funk Greats』も聴いたこともないのにジャケットは知っているというくらいの盤です。聴いてみると「何なんでしょう」という感じ。チープな電子音に歌とも言えない声がかぶさっている。ポップでもないし凶悪でもない。「これは何なんでしょうか」という感じ。

1979年の盤なので、その時代に聴けばこれは何か画期的だったのかも知れない。でも今聴いてもよく分からない。やはり音楽は、深堀りしてルーツを辿るのも必要なことだと思うけれど、その時代に生れたものを聴くことに大きな意味があると思う。まあ言い訳です。

手元にある秋田昌美の著書『ノイズ・ウォー』によると本作を評して

『20 Jazz Funk Greats』ではアヴァンギャルドのアイドル的存在としてそのサウンドを我々の時代の大衆的娯楽音楽に同化した。ノイズのネットワークによる悪意ある意識の培養という調節機能は、ドナ・サマー流のメカニック・ディスコの連続的リズムと浸透性のある無感動的ヴォイスという様式化された体裁をとる。ジャンク・アートの混沌としたメタフィジックスの高みから降りてきた快感サウンドがここにはあるようだ。

と書かれています。同時代で聴いていればこの文章の意味も分かったのかも知れない。

奇蹟がくれた数式

2016年、英国、マシュー・ブラウン監督

植民地下にあったインドの天才数学者ラマヌジャンが英国で認められまでのお話。

www.youtube.com

ラマヌジャンについてはwikipediaをどうぞ

シュリニヴァーサ・ラマヌジャン - Wikipedia

ラマヌジャンの伝記映画ということで期待して観に行きましたが、ちょっと凡庸な感じでした。独学で勉強した数学の能力をもつインド人を英国の権威ある人物が発見し、英国に渡ってからも不当な差別を受け、苦労しながらも成果を発表するという物語で、ちょっと映画としての起伏に欠けるんですよね。

ラマヌジャンが如何に直感的で天才肌かというものを表現するのに、権威ある人物が驚く、認めていなかった人物さえ感服する、という感じなんですけど、それだけではちょっと凄さが伝わらない。
思うに映画やドラマといった映像表現というのは目に見えない技術というものの凄さを表現するのにはとことん向いていないのだなということを改めて感じます。
学問的優秀さや工業的技術の素晴らしさみたいなものをどうしても表現できない。
よくある凄腕ハッカーみたいなものの描写も、もの凄い速度でキーボードを打つ、ディスプレイに溢れる文字列、眼鏡にディスプレイが反射してキラリ、エンターキーを押すとそれによってあらゆる電子機器がダウン、みたいな感じでしょう。

で、表現出来ないからどうするかというと、そういう偉人を描くのに人間ドラマに置き換える。恵まれない生い立ち、認められない理不尽、仲間との葛藤、苦労の末に掴んだ成功、そういった苦難の半生を描く。でもそれは人間ドラマであって、その偉人の成果を表現していることじゃない。
ちょっと前に知人と話していて、ヒットしてる映画やドラマというのは全部その中身は人情話で大衆演劇のような勧善懲悪、水戸黄門、悲恋、そんなものばかりではないか、という話をしていました。本作にも当て嵌まると思う。

映画は視覚と聴覚によって短時間で物事を体験させる方法だから無理を言っても仕方ないし、一本の映画の中に描かれていないものがあるなんて言ってもこれまた仕方ない。
しかし、学問や工業技術の素晴らしさそのものを表現する方法が編み出されたらそれは凄い映画的発明なのかも知れないなあ、と考えたのでした。